65回 箱根駅伝大会(1989年)から68回大会(1992年)で4回出場し、花の2区で3年連続区間賞のジョセフ・モガンビ・オツオリさん(37歳 山梨学院大卒・重川材木店)は、現地時間の30日に母国ケニアに一時帰国中に交通事故に遭い逝去した。
上田誠仁監督が8月31日の午前中、オツオリさんと同じケニアのキシイ出身のモカンバさん(山梨学院大卒・AIDEM)のコーチ木村翔さん(山梨学院大卒・AIDEM)から、「オツオリさんが現地時間の30日に交通事故で亡くなった」という、悲報の連絡を受け判明した。
オツオリさんは、1987年に山梨学院大学附属高等学校に入り、1988年に山梨学院大学に入学。『日本インカレ』 1988年 10000mとハーフマラソン優勝、1989年 ハーフマラソン優勝、1991年 ハーフマラソン優勝。『全日本駅伝』 1988年 20回大会 1区区間賞(10位)、1989年 21回大会 8区区間賞(3位)、1990年 22回大会 8区区間賞(2位)、1991年 23回大会 8区区間賞(2位)。『出雲駅伝』 1989年 1回大会 2区区間賞(3位)、1990年 2回大会 6区区間賞(3位)、1991年 3回大会 6区区間賞(初優勝)。『箱根駅伝』 1989年 65回大会 2区区間賞(7位)、1990年 66回大会 2区区間賞(4位)、1991年 67回大会 2区区間賞(2位)、1992年 68回大会 2区区間2位(初優勝)など、大活躍した。卒業後はトヨタ自動車に進んだが帰国。2003年に再来日し、重川材木店で大工として働きながら、陸上部のコーチ兼選手として活躍していた。
オツオリさんが3年生の時に1年生で入部した、飯島理彰 山梨学院大学陸上競技部コーチは「びっくりしました。オツオリさんは、競技選手でも私生活でも部員の鏡でした。日本語が堪能で、後輩の面倒をよくみてくれました。競技姿勢は模範的で、朝練習の前に一走りして集合し、さらにひたむきに練習していました。そんな、姿勢が強さの秘訣となっていたと思います。1991年の67回 箱根駅伝で、私が1区を走り8位でオツオリさんに襷を渡しました。チームは準優勝でした。オツオリさんは『来年はしっかり頑張ろう』と、1年生の私を叱ることなく、むしろやる気を奮い立たせてくれました。翌年、オツオリさんを中心に無我夢中で練習に打ち込み、68回 箱根駅伝で初優勝という金字塔を打ちたてられました。甲府の町を、オツオリさんたちと凱旋パレードした日が、昨日のように蘇ります。オツオリさんの成功が、その後の留学生に道を開いたのだと思います。私たちにできることは、駅伝の成績で応えるしかないと思います。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます」と、力を落としていた。
上田監督は「悲報を受けとったとき、『えー』と声にならなかった。驚きで適切な言葉が見つからなかった。1986年に山梨学院大学陸上競技部が創設された3年後に、大学に入学し入部してきた。陸上競技部の雑草軍団のスピリットを築き上げてくれた。一昨年には新潟の重川材木店に就職してから、重川隆広社長とオツオリが大学を訪れてくれた。今年6月にチーム同士の交流を図った。7月には甲府や野辺山で合同練習をした。8月初旬には長野県の車山で1次合宿を行った。『家族に会うために一時帰国します。9月にまた来ます』と別れた。オツオリは、重川材木店でコーチ兼選手として、一筋の光明を見出していただけに無念だと思う。本当に残念である。今日の朝練習でチーム60余名と、オツオリのホームだった緑ヶ丘陸上競技場で黙祷を捧げ、オツオリの魂に応えるためにもしっかり練習し、しっかり戦っていこうと誓うとともに、オツオリの死後の幸福を祈った」と、悲しみに沈んでいた。
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