山梨学院パブリシティセンター
“水晶の県山梨“のルーツを学術調査
〜山学大考古学研究会が乙女鉱山跡を現地調査〜
〜近代産業遺産として保存活用を呼びかけ〜

山梨学院大学考古学研究会は8月1日、荒川源流の山梨市と甲府市の境界線上標高1500mの山中にかつて存在した“乙女鉱山跡”を現地調査した。乙女鉱山は明治初頭から昭和50年代までの長期間山梨の宝飾産業を支えた水晶を産出した鉱山。透明度の高い無色水晶・白色水晶を数多く産出した。金峰山一帯で最も大規模な原産地であったが、第二次大戦後採掘量が徐々に減少し昭和56年に鉱山会社が倒産して閉山された。現地調査には山学大考古学研究会の4人の学生と顧問の十菱駿武教授、NPO法人山梨水晶会議のメンバー6人らが同行した。一行を出迎えたのは数万年の時を経て地上に露出した石英脈が創造した“天然のアーチ”、坑道入口に現存する圧倒的迫力の自然のモニュメントが調査隊を魅了した。一行は鉱山に残されたものを詳細に写真に収めるとともに、GPS・電子メジャーなどを使い鉱山全体の見取り図を作成した他、これまで判らなかった火薬庫の存在を新たに確認した。山学大考古研と山梨水晶会議は山梨の宝飾産業の原点ともいえる乙女鉱山を近代産業遺産として保存活用するよう行政などに働き掛けることにしている。
乙女鉱山の名前の由来は、最盛期の明治時代に男の鉱夫に混じり若い乙女が鉱石の運搬人夫を務めたことに由来するといわれ、下流の乙女高原・乙女湖(琴川ダム)の名称は鉱山の名から来ている。場所は山梨市牧丘からクリスタルラインを上り、乙女湖のある柳平地区をさらに甲府市黒平方面に上って行く途中の倉沢山北沢、砂利道の林道を2,5キロ歩いた先に廃屋の乙女鉱業会社事務所が現れる。乙女鉱山の歴史は、明治政府の水晶山開発推奨政策で盛んに採掘されるようになり、当初は水晶鉱山、その後重石(タングステン)、ガラスに加工する珪石(石英)を産出する鉱山として明治・大正・昭和の約110年間にわたり採掘された。十菱駿武教授の研究によると、太平洋戦争に入ってから敗戦後にかけて日本国土・中国・朝鮮のタングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者になっていた時期もある。昭和34年の『鉱山名簿』には、倉沢鉱山、鉱種珪石、鉱業権者児玉誉士夫、鉱山労働者46人とある。その後乙女鉱山株式会社(塩山市千野)が経営にあたったが採掘量が減少し、最終期には鉱山長以下4・5人で操業、倒産により昭和56年に閉山された。鉱山跡に立ち入ることは調査目的以外は禁止されているが、今回の調査でミネラルコレクター(鉱物収集家)による盗掘跡が数か所見つかった。調査隊はこれまで判らなかった火薬庫の存在を初めて確認した他、鉱石を運びだしたトロッコと軌道、トラックエンジンを改良した発電機やブルドーザーなど放置されたままの鉱山関係機材の種類とその位置を調べて写真に収め、鉱山全体の見取り図を作成した。調査に参加した学生は山梨学院大学考古学研究会の塚田一也(3年)、長町光(3年)、斉藤舞(2年)、小林莉奈(2年)の4人、このうち小林莉奈さん(左)と斉藤舞さん(右)の二人は「普通では出来ない体験をして視野が広がった、一日で逞しくなった感じがする、夏休みの最初にいい思い出が出来ました」と語った。指導にあたった十菱駿武教授は「今回の調査で、“天然のアーチ”の高さや横幅、坑道の入口からトロッコで運び出された鉱石の受け渡し場所、トロッコ軌道の長さや位置関係などをある程度正確に捉えた他、火薬庫の位置を特定できた。近代産業遺産として公開するためには、故郷を見つめ直す文化的な立場からの視点・観光資産的な視点・自然保護的視点など様々な角度からのすり合わせが必要、鉱山関係者をも含めた調査や研究をさらに進める必要がある」と話している。大学の調査に同行したNPO法人山梨水晶会議は、後継者の育成、鉱山の保護、水晶産業の適正化などの活動を通して「水晶の山梨」を見つめ直そうという団体。宮川守会長は「一昨年7月に県立文学館で開かれた『山梨の水晶を考えるシンポジューム』を契機に、地場産業の来た道と明日のあり方を考えようという機運が盛り上がり、有志が集まって活動を始めた。産業の発展という視点からだけでなく、山梨の将来のためには何が必要なのかという視点から、行政と大学と民間がそれぞれの立場から意見を出し合うことを願っている」と語った。今回の調査の詳細は近く乙女鉱山と山梨の水晶産業遺産報告としてまとめられる。(M.I)
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