山梨学院パブリシティセンター

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●やまなし学研究2019古代甲斐への誘い(全7回)
~受講生約100名古代ロマン熱く開講~
~末木氏「総論 古代甲斐を訪ねて」~

山梨学院生涯学習センターは4月24日、50周年記念館で地域の特殊性と普遍性を解明してゆく「やまなし学研究2019 前期コース『古代甲斐への誘い』」(全7回)を開講した。第1回目は山梨県考古学協会会長 末木健 氏が「総論 古代甲斐を訪ねて」と題して、1.甲斐国古代の概要、2.弥生時代・大陸文化の流入、3.古墳の分布と背景について遺跡や遺物を紹介しての講義が行われた。その後で会場を埋め尽くした約100名の受講生と先史・原史・有史の時代定義などの質疑応答が熱く交わされた。主催した永井健夫生涯学習センター長は「地域を捉え直し、その特徴を理解することは、『自分』の位置を確認する作業という点で有意義な経験になったと思う」と、考古学はわずかに残されている遺跡や石器・土器の断片などから推測する学問。あと講義は各論6回、それぞれ受講生を古代甲斐のロマンへ誘う。


◆開講に先立って◆
永井健夫生涯学習センター長は「『やまなし学研究』は地域の特殊性と普遍性を解明してゆく学問的探求であると言える」と開口一番。地域学は、「東北学などの先進例に続き、地域を対象化する試みとしての地域学は、とりわけ1990年代以降に『まちづくり』『地域活性化』などで、市民の学習意欲が全国各地で盛んになって行った」という。本センターでは、「センター発足1993年、宮坂広作センター長が山梨県のパイロット的なプログラム『なぜ、いま山梨学か』に始まり、2代目の椎名慎太郎センター長が『新山梨学事始~明日の山梨を求めて~』などで、地域学をとおしてどのように地域に関わりうるのか」という関心で進めてきた。現在の形式は「2004年度に地域貢献と同時に学部教育とリンク可能なプログラムとして『やまなし学研究』を立ち上げた」と経緯を述べる。さらに「この講座は初年度の『いま、地域を考えることの意味』を皮切りに、山梨の地方自治・自然・活性化・教育・ワイン・国人物伝・古道・地場産業などを実施してきた。今年度の前期コースは『古代甲斐への誘い』(全7回)を開講する」と頷く。「地域を捉え直し、その特徴を理解することは、『自分』の位置を確認する作業という点で有意義な経験となるはず。また、知的な刺激に出会える場。是非、大いに学び楽しんでもらいたい」と熱く語った。

◆第1回「古代甲斐を訪ねて」講義(骨子)◆
▶︎皆さんは古代はいつからだと、①三世紀「卑弥呼の時代」、②五世紀「倭の五王の時代」、③七世紀「大化の改新前後」と学者によって説が分かれる。通称「七五三論争」と言い、これは多分、それぞれの研究者がそれぞれのテーマで目的を持って時代区分しいてるので決着はつかない。ただ鎌倉時代からは中世になることは一致している。
●甲斐国古代の概要
🔲弥生時代🔲
▶︎紀元前200年頃には弥生文化が各地に波及してゆき、稲作が定着するとともに、環濠集落の社会が生まれ、集落から小国が点在すると富を求めて争いが始まった。倭国は邪馬台国を中心に約30国の小国連合で成立。頂点に女王卑弥呼が出現。魏志倭人伝に卑弥呼は魏に使いを送り親魏倭王の称号を授かり、魏との交易権を手に入れたとある。他方、弥生後期には鉄製農耕具が主流となり石器は全国からほぼなくなった。
▷甲斐国では「米倉山遺跡」で中国の新の王莽が鋳造した銅貨の『貨泉』が出土。上層からは弥生時代終末期から古墳時代初頭の土器が見つかっている。日本では、おもに九州から近畿地方に多く分布しており、東日本では珍しい事例。赤烏元年鏡は市川三郷町大塚の「鳥居原狐塚古墳」で出土。「宮ノ前遺跡」からは、イネ科植物の土器の種子圧痕が出土。稲作と灌漑施設をつくる農業土木・鉄器・銅器技術などを持った渡来人が、甲斐国にも来たことが考えられる。甲斐国では銅剣・銅鐸は出土していない。
🔲古墳時代🔲
▶︎倭の五王の連合政権が大和王権なのか?。日本初の国家「大和政権」が近畿地方で成立し、大規模な古墳が近畿の大和につくられた。高句麗に百済や伽耶が撃退され人々が倭国にやってきて、稲作技術などの文化をもたらした。大和政権は、中国や朝鮮半島の制度をもとに氏姓制度が、氏は支配者層の集団であり、私有民(部曲)や私有地(田荘)の所有を認められており、姓は氏に授けられた家格を示す称号で政治的地位や職業の位に基づいて定め豪族を取り込み、渡来人は専門職集団の品部として取り込んだ。さらに白村江の戦いで、多くの渡来人が日本に亡命した。
▶︎摂政となった聖徳太子は冠位十二階の制、憲法十七条を制定し豪族を天皇の下に再編し推古天皇を支えた。乙巳の変で蘇我氏本家が滅び、そして天智天皇が死去し、壬申の乱で長子が天武天皇に即位し律令体制国家の建設を始める。その後、持統天皇、文武天皇と継承され大宝律令制定と班田収授法を開始した。
▷甲府市「甲斐銚子塚古墳」は4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になる。一部の渡来人は巨麻郡に移り住んだと『日本書記』に記されている。「姥塚古墳」と「加牟郡塚古墳」は横穴式石室を持つ円墳。「横根・桜井積石塚古墳群」は150基ほど存在する。須恵器の生産は「御座田遺跡」。御牧として穂坂牧・真衣野牧・柏前牧が考えられる。積石塚古墳群は渡来人の墓か?。甲斐国は朝廷の蝦夷征伐の最前線基地の役目をしていたのか?
🔲奈良時代・平安時代🔲
▶︎大化の改新を行った中臣鎌足は天智天皇から藤原の姓と大臣の位を贈られ藤原の祖となった。その子の不比等が藤原京が人口増加により平城京に遷都し奈良時代を築いた。また、桓武天皇は平安京に遷都し平安時代を築く。三条天皇、初めて記録荘園券契所設置。平清盛は太政大臣になり平氏全盛期となるが、源平最後の合戦「壇の浦の戦い」で、平氏一門は滅亡される。
▷律令による社会体制で甲斐国の郡と郷は、山梨郡(10郷)、八代郡(5郷)、巨麻郡(9郷)、都留郡(7郷)。4郡31郷。4郡家は不明だが、春日居町国府遺跡は山梨郡家とも言われている。甲斐国の都留郡は大化前代までは相模(評)の一部で、律令制の制定に伴い、郷の東で、相模国と分け、桂川上流地域を甲斐国都留郡とした。長屋王邸の馬司木筒には、甲斐の馬司が食糧の給付を受け、馬(甲斐の黒駒?)を飼育していたと書かれている。瓦窯跡は「天狗沢瓦窯跡」と「川田瓦窯跡」がある。他方、山梨県内に寺院の建立の痕跡は未だに見つかっていない。
●まとめ●
▷甲斐国の名称の由来は諸説あるが、平川南氏の東海道と東山道をつなぐ「行き交う(甲斐)」の説がある。甲斐の古道は、クロスポイントとして甲斐=交わる文化・経済の要所して栄え、甲斐国に数多くの文化遺産をもたらした。これからも、銚子塚古墳の被葬者はだれなのか?、穂坂・真衣野・柏前牧の場所と遺構、市川荘とその中心地など、さらに解明していかなければならないと結んだ。

◆講義終了後「インタビュー」◆
▷受講を終えた山村國浩(76歳)は「万寿森古墳が歩いて5分のところにある」と考古学が身近にある。「梅の木遺跡の竪穴住居を、今年も建てるが最初から従事する」と考古学にただならぬ情熱を抱いている。今回参加した動機は「古代甲斐への誘いということで、古代について学ぼうと参加した」が、「講義で古代は弥生・古墳・奈良・平安だと聞き、昔学校で縄文の前が古代と習ったので、質疑応答で質問した」という。考古学の時代区分の一つで「文字が無く遺跡や遺物から推測する時代を『先史(原始)』、文献記録という意味でまだ不十分な時代を『原史(古代)』、文献資料によって歴史事象を検証することが可能な時代を『有史(中世)』という先生の回答で納得できた。次回からも楽しみ」と胸のつかえが取れ微笑んだ。
▷2代目山梨学院生涯学習センター長の椎名慎太郎コーディネーターは「末木先生にはレジュメを確り準備していただき、全体に収まるかひやひやしていましたが、うまく収まりほっとしている」と笑顔で答えた。「末木先生の今日の講義で、古代の山梨の全体像、マップが出来たのではないかと思う」と満面笑み。「あとは、6回続く各論の先生たちに委ねたい」と、一呼吸して「とは言っても、あと6回で全体が語れるかはなかなか難しい。それぞれの講師のテーマも、取りようによって膨大な内容」と大きく頷く。「会場いっぱに詰め掛けた受講生が、私語もなく一生懸命熱心に聞いていたのが大変印象的だった 。質疑応答も大変熱心で充実していた」と満面の笑みを浮かべ会場を後にした。
▷この講座は、原則隔週2回水曜日の19時~21時の2時間程度、7月17日まで行われる予定。
▷主催:山梨学院生涯学習センター、共催:NPO法人大学コンソーシアムやなまし

文(H.K) 、カメラ(平川大雪) 2019.4.27