●スケート北京五輪出場 郷亜里砂母校に引退の挨拶
~努力の末に2度の五輪出場を果たし、やり切った~
~目標を支えてくれた愛媛県にスケートで恩返し~
5月10日、平昌、ほ京冬季五輪スピードスケートで2大会連続出場を果たした山梨学院大学スケート部OBの郷亜里砂さんがこの程、現役引退を表明。母校に引退報告のため古屋光司理事長らを訪問した。濃紺のスーツに身を包んだ郷亜里砂さんは正午頃、山梨学院大スポーツ科学部客員教授・川上隆史スケート部顧問、篠原祐剛同コーチと共に古屋光司理事長、青山貴子学長、下田正二郎カレッジスポーツセンター長のもとへ訪れた。初めに川上隆史スケート部顧問が引退に至った経緯を簡単に説明。その後、古屋理事長、青山学長、下田センター長は、北京五輪で選手団の旗手を務めた感想や五輪選手に昇り詰めるまでの苦労、スケートの日本のレベル、郷さんに続く後輩のことなど矢継ぎ早に質問。和やかに歓談を進めた。その中で引退を決めた理由を郷亜里砂さんは「目標を揺るがずに定めていたので辛くてもそこへ向けて続けてきた結果、今の自分がいるので今は、十分にやり切った感じです」と話した。今後については、「お世話になった愛媛県に少しでも恩返ししながらゆっくり生活がしたい」とプレッシャーから解放された優しい笑顔で話した。歓談後、取材のメディア記者の質問に答えていた。
■郷亜里砂のプロフィール 努力の末につかんだ五輪2大会出場出場ー
5月10日、スピードスケートで平昌、北京冬季五輪に2大会連続で出場した郷亜里砂さんが引退報告のため母校の山梨学院大学を訪問した。郷さんは北海道別海町出身。3歳からスケートを始め、高校は名門白樺学園高校に進学した。高校時代は目立つ選手ではなかったため続けるか思い悩んでいたところを父親の勧めで山梨学院大学の門を叩いた。山梨学院では、スピードスケートとショートトラックの両立に取り組み、安定したカーブワークを磨き頭角を現した。2010年、大学4年の時には日本学生氷上競技選手権で女子500m、女子1000mで優勝。「大学生2冠」に輝いた。それでも卒業後は、所属先がなかなか決まらず練習拠点が安定しないつらい時期にも努力を続けた。ようやく所属先が決まると、結果も安定するようになり、2017年2月の札幌冬季アジア大会で3位になった。郷さんは、この大会が国際大会で表彰台上がるきっかけになり、次のシーズンのピョンチャン(平昌)五輪に出場する飛躍の大会になったという。遅咲きの30歳で念願の出場を果たした2018年平昌五輪では500mで8位入賞、1000mで13位と目標のメダルには届かなかった。「やり切った」と一度は現役を退いたが1年後に復帰。「反面、動く体は残っていて、先に体が動いてどんどん気持ち的にも上がってきて」と再び次の五輪を目標に据えた。そして2022年2月開催の北京五輪の切符を「全力」で手に入れ、2大会連続という誰もが行き着くことが難しい快挙を成し遂げた。さらに日本選手団の旗手という大役を任された。34歳で出場した北京五輪、出場は女子500m1本。15位と目標の順位には届かなかったが、「落ち着いてレースができた」と納得した。
■和やかにスケート談議で盛り上がるー
歓談では、古屋光司理事長が『所属先や練習拠点探の苦労にも記録を伸ばしていくすごさ』『ロングもショートもできて両方指導もできること』。青山貴子学長は『長い競技生活の中の浮き沈みで沈んだ時にどう立て直すのか』と質問。さらに『スピードスケートとショートトラックの両立』や『山梨学院のスケート部の現状』『コロナ禍での海外遠征などの影響』『日本のスケートのレベル』『アジアと欧米の大会の違い』『競技の面白さ』、そして『これからの目標』『どうやって子どもたちに始めるきっかけをつくるか』など次々と興味が尽きない質問が投げかけられた。限られた時間ながら郷亜里砂さんを中心にしたやり取りに場は和やかな雰囲気に包まれた。そして、川上隆史顧問がこんなエピソードも打ち明けてくれた。「実は山梨学院に入る前にすでにショートが強い神奈川大に入学が決まっていたのを私がスカウトに行ってひっくり返した」という話や今回引退が表明され、「郷はスケート連盟からナショナルチームのコーチへの打診を断った」という貴重な裏話を披露した。
■歓談後のインタビューに優しい笑顔で答えるー
歓談後の囲み取材では、郷亜里砂さんは選手生活を振り返って「今大学に挨拶に来させてもらい、すごく懐かしい気持ちと大学時代に頑張って努力したことが最後オリンピックにつながっていろいろな経験ができたなと思うので本当に今までやってきたことが蘇ってきた感じがします。大学に入る前は教えてもらったことだけをやっていたので、なかなか伸びなく悩んだりしたことが多かったんですけれども、大学では祐剛コーチや監督に指導を受けて自分でしっかり考えて動くことを学びました」と話した。ピョンチャン後に一度引退して復帰した後の北京の違いについては「1回目のオリンピックは初めてだったのでどうにもわからない状態で舞台に立って実際に出てメダルが獲れなくて悔しい思いがあったんですけど、北京では1回経験した分、いろいろ分かってレースができたので気持ちの面で全然違うオリンピックになりました。落ち着いてレースができました」と振り返った。また、再びの復活はとの意地悪な質問には「もう無理です(笑い)。体力的にも4年前とは全然違う感覚があるので、もしやるんだったら今も続けていると思います。1回引退した後の戻すのが大変だった経験をしたので次の復帰はないと思います」ときっぱり否定した。今後の活動については「今、愛媛でスポーツ専門員をさせていただいているのでジュニアの子を教えたりして貢献してさせてもらい、自分の今後の生活のことも考えながらスケートでやってきたことで恩返ししたい」と支えてくれた愛媛県に感謝した。
川上隆史スケート部顧問は「オリンピックというのはスポーツに関わった選手の最大の目標である意味到達点かも知れませんけれども、それを2度目標にしたものを達成することは、本人からあまり言葉では出ないことですけどスランプやアクシデントとかいろいろな壁を乗り越えたいうその努力は、彼女の人間としての力が素晴らしいと感じます。私の個人的には全部思い残すことなく力を出し切ったスケート人生で(引退)寂しいというよりは“よく頑張ったね”とねぎらいの言葉を懸けてあげたい」と愛弟子を称えた。
文(K.F) 写真(平川大雪) 2022.5.11