山梨学院広報課

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●【コラム】踏みしめた2022甲子園の夏
~未成熟だったチームは1年後に強豪チームに成長~
~春夏連続出場を果たした選手たちに焦点をあてる~

第104回全国高校野球選手権に3年ぶり10度目の出場をした山梨学院高校野球部は、8月8日に奈良代表の天理高と対戦した。試合は、山学の二枚看板山田悠希(3年)・榎谷礼央(3年)と天理のエース南沢佑音投手が投げ合う投手戦となった。2点を追う山学は、9回最終回2死から6番・渋谷剛生(3年)が右前打で出塁、7番・岳原陵河(2年)が左越え2塁打を放ち1点差としたが、あと一歩及ばず1対2で敗退、初戦で甲子園の大舞台を去った。振り返ってみると、今年の山学高野球部は、決して最初から強いチームではなかった。始動した当初は、投打ともに未熟で練習試合などでも力不足を痛感。猛練習を重ねて「関東を代表する強豪」に急成長し、春夏連続甲子園の道を歩んだ。未成熟なチームはどうやって強豪チームに変われたのだろう。そこには、選手の誰もが口にする一つのキーワードの存在があった。
 
■新チームの始動、力不足を痛感
チームが始動したのは昨夏、県外の強豪校を砂田グラウンドに招いた練習試合で、榎谷も山田もピンチで抑えきれず、打撃陣はチャンスで打ち返せなかった。4期連続甲子園に出場した先輩たちのチームと比べられ、未熟で力不足を痛感した。その悔しさを選手たちはその胸にしまい、自分を見つめ直し、練習に取り組む姿勢を見つめ直した。どん底から這い上がるために、投手はひたすら白球を投げ込み、打者はひたすら白球を打ち返し、全員で守備練習と走塁練習に励み、全員が懸命に走り込む猛練習の日々を重ねた。そこには選手の誰もが一様に口にする一つの言葉の存在があった。「もう悔しい思いはしたくない」。この言葉が選手の心を一様に強くした。榎谷は全体練習後、城東大橋下の緩やかな坂道をダッシュで何度も何度も駆け上がり、細かった身体を逞しい体に鍛え上げ、球威とボールの切れに磨きをかけた。野手から投手にコンバートされた山田は懸命に投げ込んでフォームを固め、抜群の制球力を持つ速球派投手に急成長、最後の夏は背番号1を付けて聖地のマウンドに立った。両右腕がダブルエースに育ったチームは、昨秋の県大会で優勝し関東大会で準優勝して球児の春への招待状を手にした。センバツではドラフト候補の好投手・越井颯一郎投手を擁する木更津総合高と激闘を繰り広げ、榎谷が155球の力投、延長13回タイブレークの戦いの末に押し出し四球で敗れた。高校球界では「春夏連続甲子園は難しい」と言われているが、山学高はジンクスを覆して夏の県大会で優勝し、春夏連続出場を叶え、学校の歴史に新たな1ページを刻んだ。
 
■春夏連続での甲子園出場
今夏の甲子園に出場する時には、マスコミやSNSで「関東を代表する強豪」と評価されるチームに育っていた。打撃陣は、1番に定着した鈴木斗偉(3年)がリードオフマンとして秋の関東も夏の県大会も勝利への道を切り開いた。1年の夏からレギュラーの2番・進藤天(2年)は昨夏の県大会準決勝・富士学苑戦9回表一死満塁の逆転機に3塁牽制で刺され、チームは決勝に進めず5連覇を逃した。試合後、進藤は号泣、先輩たちに涙で詫びた。「あの夏は帰ってこないが、先輩たちの思いも胸に全力で戦う」決意で戦いに挑み、昨夏の悔しさをバットで打ち返し、好守備でチームに貢献した。3番の岩田悠聖(3年)は負傷から復帰し、秋の関東も夏の県大会も抜群のバットコントロールでヒットを量産、檜舞台の夏の甲子園ではダイビングキャッチで大ピンチを救った。1年夏から4番の高橋海翔(2年)は、昨秋の宿敵東海大甲府戦で2打席連続本塁打を放ち、関東でも夏の県大会でも4番打者として大活躍した。3年前のチームを投手と野手の二刀流で牽引し、夏の甲子園では延長12回140球の熱投で大観衆と山梨県民を感動させた相澤利俊主将(現・日体大3年)の弟の相澤秀光(3年)は兄に続き主将を任された。相澤は、チーム作りの為に本来の守備位置である遊撃手を後輩の進藤に譲り、時には経験したことがない捕手までこなし、懸命にチームをまとめ、5番・三塁手として兄同様に全身全霊を傾けてチームを甲子園に導いた。いぶし銀の輝きを放つ左の巧打者6番澁谷剛生(3年)はセンバツを懸けた大一番の白鷗大足利戦1回裏2死満塁の先制機に、逆方向の3塁線を鋭く抜く走者一掃の技あり3点2塁打を放ち一気にチームに勢いをつけた。2年ながら7番に抜擢されたプロも成長を期待する長身スラッガー岳原陵河(2年)は夏の甲子園で唯一の得点を叩き出した。未完の大砲8番・佐仲大輝(2年)は好リードで二枚看板の先輩を支えた。試合のたびに活躍選手が変わり、毎回新ヒーローが生まれた。
 
■吉田監督、全部員の努力を称える
夏の甲子園に向けて、チームは1日千スイングを課して猛練習を重ねてきたが、内外角いっぱいの低めを丹念につく天理・南沢投手の投球に屈し、実力を発揮することができなかった。相澤主将は「甲子園で勝つということは難しいことなんだと感じました。悔いはないが、結果を残せなかったことは心残り」と聖地の夏を振り返る。吉田洸二監督は「本当に苦しんだ世代、対戦相手とも、コロナとも戦う3年間を過ごしてきた。一回戦で負けて弱いと思われる方もいるかも知れないが、強豪校が集う秋の関東で準優勝、春の関東では二松学舎、前橋育英を下しベスト4、山梨学院に来た中で一番強いチームだと思っています。ただ勝負には時の運が敵にも味方にもなる。もっと上を目指せるチームでした。本当に立派に戦ってくれました」と話し、試合に出場した選手と、ベンチで鼓舞した選手と、アルプススタンドで舞い踊り続けた選手たちそれぞれの努力を称えた。
 
■甲子園出場を夢見て全国各地から集う
部員たちは、いずれも甲子園出場を目標に全国各地から、県内各地から集まってきた能力の高い選手ばかりの集団だ。父も母方の祖父も浜松商で甲子園に出場した榎谷礼央は「自分も甲子園に出たい」と進学先に山梨学院を選び、浜松から甲府にやってきた。黙々と全体練習、自主練習に励んで足腰を鍛え、心と体の強化に努めた。関東大会の好投でプロ野球のスカウトが砂田グラウンドに足を運ぶ選手に成長。センバツ出場で三代連続甲子園の夢を叶え、高校日本代表第1次候補選手に鈴木斗偉とともに選ばれた。岩田悠聖の父は山学大アメフト部の出身、母は山学高ソフトボール部の出身、両親と同じ山梨学院で学び、野球の力を高めたいと、三島から甲府にやってきた。岩田は卒業後も大学で野球を続ける。山王晃成(3年)は相澤主将や他の県内出身者と同じように寮生活で野球漬けの日々を過ごした。当初はベンチ入りメンバーではなかった。山学高は3年前からベンチ入りできなかった3年生同士による部活引退試合を県内の強豪校と行っており、今年は山日YBS球場が空いていた6月下旬に日本航空高と対戦した。その「ラストゲーム」で山王は好投。吉田監督は夏の大会直前のメンバー変更でメンバーに入れた。甲子園では出番はなかったが、地道な努力を3年間積み重ねた末に、最後の夏に聖地の土を自らの足で踏みしめた。チームの部員数は93人。当然部内競争は熾烈、並の力と並の努力ではAチームには入れない。入れたとしても、実績を重ねないとレギュラーから外されてしまう。第二寮の隣に新たに第三寮が建設された。また、グラウンド隣のブドウ畑を譲り受けてボールが飛んでくる心配のない場外ブルペンと体幹を鍛える砂場も設けられた。今年の選手たちの活躍が財産となって、来春には、山梨学院に憧れを抱いた優秀な選手がきっと大勢入ってくるだろう。部内競争はますます激しくなる。選手たちは対外試合に勝つ前に、部内競争に勝たなければ打席にも立てない。その過酷な厳しさが短期間で強くなった最大の理由かも知れない。「もう悔しい思いはしたくない」という言葉は、対外試合に勝つことだけを指すのではなく、部内競争に勝つことも指しているのかも知れない。砂田グラウンドの砂にまみれる選手たちを見ていてそう思った。
 
■新たなチーム、新たな道へ
春夏連続甲子園を果たした今年のチームについて、マスコミやSNSでは「圧倒的な攻撃力を持つ関東屈指の強豪」と称えてくれたが、選手たちは「自分たちは発展途上、もっと強くなれた。できると思っていた低めのボールの見極めが夏の甲子園ではできなかった。後輩たちにはここを克服してほしい」と下級生にエールを送る。夏の終わりとともに3年生部員はグラウンドを離れた。あるものはプロを目指し、大多数の選手は大学で野球を続ける道を選び、あるものは高校で野球を卒業し、新たな道を歩む旅の準備を始めた。甲子園全国制覇の夢は、後輩の1・2年生部員に託された。後輩たちは、今年の先輩たちが昨夏はそうだったように、まだまだ若い未熟なチームだ。でも、先輩たちが歩んできた道を見てきた。先輩と同じように猛練習に明け暮れる日々を重ね、来夏には関東を代表する強豪チームに成長することを心に誓い、炎天の下で新たなチーム作りを始動させた。
文(M.Ⅰ) 2022.8.25

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